出版社・製造元:いのちのことば社・フォレストブックス
都会の片隅で心の居場所を見つけてほしい。そんな思いで今日も患者さんの傍らに立つ、自称「働くひきこもり」の精神科医が、ナイーブで傷つきやすい現代人につぶやく、深くておかしくてホッとするセラピーエッセイ。「百万人の福音」の人気連載をまとめ大幅に加筆した。
≪さわり読み≫
「さみしさについて」193ページより
「あなたの天を、あなたの指のわざ業をわたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたがみ こころ御心に留めてくださるとは 人間とは何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは。
神にわず僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせみて御手によって造られたものをすべて治めるようにその足もとに置かれました」 (『聖書 新共同訳』詩編より)
ども。
駒込えぜる診療所の院長です。
今から数年前のことになりますが、ある女性患者さんから、「これって、自分の中の感覚をうまくつかんでいる文章なんです」という感じで渡された、雑誌の切り抜きがありました。それは、さみしさについてのものでした。
「名づけるとしたら『慢性淋心炎』みたいな、燃えてるのか元気ないのかよくわからないけど異様にはっきりした感情さみしさ」で、「なんとも本質的なさみしさで、まるで海辺の家々が潮風にいた傷んでゆくように、心がじわじわとやられている感がするわけです」とある、川上未映子さんのエッセイでした(川上未映子『りぼんにお願い』マガジンハウス)。
慢性に経過し、くすぶっているようなときもあれば、激しいような炎症的な要素がある。つまりは心の慢性炎症でじわじわ消耗する、という感覚。とっさに「なるほど〜」とうなりたくなるような、命名の絶妙さでありました。
ところで、拙者は患者さんから一度、「先生もさみしい人ですよ」と言われたことがあります。
その昔、拙者がまだ専修医(研修医の次のステップ)だった頃、週に一度、地方の総合病院の精神科外来を担当していた時のこと。周囲には精神科がなく、車で一時間以上かけての受診となる方々も普通だった外来で、患者さんの数も半端なく多数で、早朝から夜遅くまで、というふうな診療になっておりました。まだその頃拙者は二十代で経験も浅く、慣れない土地でのやや理解しづらい方言やイントネーションに苦戦しつつも、その地方の人たちの人柄にほっとすることもしばしばでした。
業務時間に対し患者数が極端に多いため、ごく短い診察を繰り返していたのですが、拙者の父親くらいの年齢の統合失調症の患者さんが、毎回さみしさについてごく短く語っていました。
印象的だったのは、生きていくさびしさとか存在の切なさといった、根源的なさみしさのようなものをテーマとした哲学的な風情漂う深刻で行き場のない内容だったと思うのですが、いつも穏やかなたたずまいなのです。そしてある時、「先生もさみしい人ですよ」と、なんとも共感的に言われたでした。
当時の拙者には、その方が言われることを十分理解できていたとは到底思えないのと、そもそも拙者が当時自分のことを「さみしい人」とはまったく自覚していなかっただけに、意表を突く唐突なことを言われる方やな〜と思うと同時に、その共感的な言い方が不思議な感じでありました。
さて、冒頭引用詩の中で「神に僅かに劣るものとして人を造り」という部分に関し、神父の雨宮慧氏による興味深い解釈があります。雨宮氏はヘブル語からの直訳(逐語訳)では「そしてあなたは彼を欠けさせた 少し 神よりも」としています。
「確かに人間は神が『心に留め、顧みる』存在ですが、夜空の神秘的な力に吸い込まれて『何か、ひとは』と問うとき、答えは『取るに足りない無』となるに違いありません。しかし、その『欠け』は、神が神よりも少し欠けさせた結果だと気づいたときに、すべてが変わります。この『欠け』は神に出会い、神に満たしてもらうための『欠け』となるからです」(雨宮慧「artos」第二四三号付録)
拙者も、自分ではどうにも耐え難いほどの痛みを伴う「欠け」を感知することがあるですが、これはもしかすると「慢性淋心炎」からくるのかもしれぬ。しかし、この「欠け」は神と出会うためのものであり、神もまた人と深い関わりを望むがゆえに人を欠けさせた、とすると。
人は単なる欠陥品、部品不足で一人疼き続けるのではなく、神の愛の計画のうちにある必然的な欠けであるなら??。
そうであるなら、「本当に、人の子は何ものなのでしょう、あなたがそんなふうにまで顧みてくださるとは……」と、じんわり振り返る思いがいたします。
専修医だった頃から二十年以上たった今、あの患者さんに会えたら、このさみしさについて、前よりもっと具体的に話せるんやろか。そして、この慢性炎症を神が意図しておられるという視点について、どう思うんやろか。
もう亡くなってはるかもしれんな。明るく達観した感じで向こうでもやっとるんやろか。
二十年以上前の患者さんは今、目の前にはいませんが、同じようにさみしさを抱えた別の方々と診療所で対話することがあります。
「あんたも私もさみしいもん同士」という思いが互いの「欠け」から出ていて、欠けを通じて互いに出会い、傷つけ合っていたとしても、この「欠け」は神が愛のうちに計画し、この疼きから神と出会い、互いの欠けが満たされ歓喜に変わる日がくるといいな、と思うたりします。
著者・訳者など:芳賀真理子
ページ数:208頁
判型:B6変型判
ISBN:978-4-264-03953
The Doctor Is In, Have a Chat
(Kokoro no Zatsudan Gairai: Honnichi mo Shinryoh Chu)
Mariko Yoshiga
Essays based on a doctor's diary of her life and people she has encountered. Doctors too have weaknesses and worries so they can identify with patients, including hikikomori (those with acute social withdrawal). She shares her testimony of how she met her own difficulties with faith in God. These heartwarming essays by this kind-hearted doctor will encourage readers. First published in Gospel for the Millions magazine. B6 size, 208 pp.